毎年、クリスマスの時期になると改めて思うのは、インターネットがいかに私たちの思考能力を奪い、私たちは Google の言うとおりのことしか考えられなくなっているか、ということです。同じようなミーム、同じような記事、同じようなブログが延々と繰り返され、そのすべてが間違った一つの主張を使いまわしています——現代のサンタクロースは、シベリアのシャーマニズムに端を発するサイケデリック・マッシュルーム伝説を踏襲したものだ、という主張です。
シベリアのシャーマンの中には、ベニテングタケ——童話に出てくる古典的な、赤い傘に白い斑点のあるキノコ——を食べる人がいる(実際には少数ですが)ために、母なるロシアの極寒地生まれのこの謎めいた登場人物を現代に生まれ変わらせたのがサンタクロースである、と人々は想像します。サンタクロースを、キノコを儀式に使うシベリアのシャーマンから来たものと解釈するためには、次の4つのことが前提となります。
- サンタの服の赤と白という色はベニテングタケの色を表している。
- サンタの橇を引く8頭の空飛ぶトナカイは、シベリアのベニテングタケを食べてハイになったトナカイを表している。
- プレゼントを常緑樹であるクリスマスツリーの下に並べるのは、常緑樹とベニテングタケが菌根でつながっている(詳しくは後述)からである。プレゼントは実はベニテングタケを象徴している。
- 靴下にキノコを入れて煙突のそばに大切に吊るすのは、シャーマンがそうやってベニテングタケを乾燥させたからである。
楽しいストーリーではありますが、これは全部間違いです。
真っ赤な嘘
サンタクロースの服の赤と白という色は、ついベニテングタケと関連付けたくなりますが、これはまったくの偶然です。1800年代に、聖ニコラウスをモデルとしたサンタクロースが発明されたとき、その衣装はさまざまな変遷を遂げました。アメリカ人は、サンタクロースは普通の服を着ているとは思いませんでした。そして 19世紀のアメリカ人が考えたサンタクロースの服は赤と白だけではなかったのです。ただし、赤と白がどこから来たのかはわかっています——そしてそれはベニテングタケとは何の関係もありません。その出自が赤、白、青のアメリカ国旗であることは、1863年のハーパーズ・ウィークリー誌の表紙でサンタクロースが着ている服を見れば分かります。
これが発行されたのは南北戦争のさなかでした。この絵を描いたイラストレーター、トーマス・ナストは、強硬な奴隷廃止論者で、星条旗を着て北軍の兵士に食料を配る聖ニコラウスを描いています。南北戦争が終わると、聖ニコラウスの服は再びさまざまに変化しますが、1931年、コカ・コーラが彼を広告に起用したのです(「サンタクロース」と改名したのもこのときです)。コカ・コーラの広告はすでに赤と白を使っていて、単に都合が良かったためにそれが聖ニコラウスの服の色として選ばれのであって、ベニテングタケの色とは何の関係もありません。
もしもサンタの服の色が本当にベニテングタケから来たものなら、その「事実」は初めから明らかであったはずです。でも実際はそうではなく、それは自然発生的に、誰が計画したのでもなく文化の中で変遷を遂げ、結局は単に宣伝のために使われる赤と白に落ち着いたというわけです。
ベニテングタケとトナカイ
サンタの空飛ぶトナカイについても同じで、キャラクターが少しずつ変遷しています。サンタの服と同様に、彼のトナカイをめぐる文化的な歴史を見れば、シベリアのトナカイがその起源である可能性は非常に低いのです。シベリアのトナカイは、陶酔作用のあるベニテングタケを食べはしますが、だからサンタのトナカイが空を飛ぶわけではありません。なぜそれが分かるかというと、サンタが空を飛ぶ乗り物に乗り始めたのはトナカイが登場するより前だからです。
聖ニコラウスが空飛ぶ乗り物に乗っている姿がアメリカで初めて描かれたのは、ワシントン・アーヴィングの著書『Knickerbocker History of New York』(1809年)でした。この本の中で、聖ニコラウスが空を飛ぶ乗り物は、トナカイが引く橇ではなく荷馬車で、動物が引いているわけではありませんでした。その後、トナカイが物語に登場するようになった以降も、聖ニコラウスはロバや白馬にも乗ったと言われます——そのどちらもベニテングタケは食べません。
もしも空飛ぶトナカイが本当に、(人間にしろ動物にしろ)シベリアのベニテングタケを食べた結果を表しているのだとしたら、それは最初から明らかだったでしょう。空飛ぶ荷馬車よりも空飛ぶトナカイの方が先に物語に登場したはずなのです。でもそうではありません。そして、本当にベニテングタケを食べるトナカイがベースになっているのなら、馬やロバといった他の移動手段が登場するのはなぜでしょうか?
クリスマスツリーとベニテングタケ
ベニテングタケは、ある種の針葉樹と共生する菌根菌です。つまりベニテングタケは、地下で発達して針葉樹の根にコロニーを作る菌糸から生えるのです。そのために私たちはプレゼントを、そこに生えるベニテングタケへの知らず知らずのあいさつとしてクリスマスツリーの下に並べるのである、と言う人がいます。けれどこれもまたあり得ない想定であり、その理由は他の点と同じです。つまり、なぜ私たちがクリスマスツリーの下にプレゼントを置くようになったのかについては、きちんと辿れる歴史があり、それはキノコとは何の関係もないのです。
現代的なクリスマスの風習が形作られた 19世紀、クリスマスツリーとプレゼントは何の関係もありませんでした。当時、プレゼントを渡す方法としてはクリスマスの靴下(と靴)が好まれていました1 。その後、1840年代から 1880年代にかけて、ドイツからアメリカに移住した人々がクリスマスツリーを一緒に持ってきたのです。この頃、最初に持ち込まれたクリスマスツリーは天井から吊るされていました2。
19世紀の住宅は、家の中央に一本の支持梁が通っていました(これは今でも、古い植民地スタイルの家に見ることができます)。この支柱が頑丈であったため、木を天井から吊るすことができたのです。ですからしばらくの間は、装飾された木が頭の上に下がっていました。時代とともに家屋の構造は変化し、長い支柱が支える天井にしっくいの天井が取って代わると、クリスマスツリーはテーブルの上に飾られるようになりましたが、それでもまだ、プレゼントとは何の関係もありませんでした——誰も、サンタがクリスマスツリーの隣にプレゼントを置いていくことは期待していなかったのです。
クリスマスについて書かれた最も有名な詩、『A Visit from St. Nick(聖ニコラウスの訪問)』(1823年)の中で、作者であるクレメント・クラーク・ムーアはこう言っています——「煙突の横には靴下が大切に吊り下げられている/聖ニコラウスがもうすぐやってくることを願いながら」。奇妙に聞こえるかもしれませんが、この、文化的に最も重要なクリスマスの詩の中に、クリスマスツリーは一度も言及されていません。クリスマスツリーとクリスマスプレゼントが関連付けられたのは 19世紀半ばになってからのことなのです。ただしそれでもまだ、プレゼントを木の下に置いたわけではありませんでした。当時のプレゼントは主に小さな人形やお菓子で、他の装飾と一緒にクリスマスツリーの枝に下げられていました。
その理由を理解するヒントはやはり『A Visit from St. Nick』の中にあります。この詩の中で、眠っている子どもたちが見る夢に登場するのは自転車でも人形の家でもなく、もっとシンプルなもの——たとえばシュガープラムというお菓子——で、その姿が子どもたちの「頭の中で踊る」のです。19世紀の後半に大企業に依る資本主義が台頭すると、プレゼントも大きくなっていきました。かつては慎ましいお菓子やナッツやちょっとした雑貨であったものが、木馬や人形の家やオルゴールになったのです。そうしたプレゼントは大きすぎ、重すぎて、もはやクリスマスツリーの枝にぶら下げることはできませんでした。そこで木の下に置くことになったのです。
ここでもおなじみの問題に突き当たります。クリスマスツリーの下にプレゼントを置くことが、常緑樹と共生するベニテングタケの子実体と少しでも関係あるのなら、木の下にプレゼントを置く、というのはクリスマスの風習の最後に付け加えられるのではなく、最初からそうであったはずです。でも実際には、クリスマスの靴下と天井に吊るされたクリスマスツリーから、テーブルに置かれたプレゼントなしの小さなクリスマスツリー、そしてクリスマスツリーの枝にぶら下げる小さな贈り物から現代の、木の下にプレゼントを置く風習に至るまで、ドイツ人(シベリア人ではなく)がはっぱをかけたさまざまな文化的流行が自然に融合したのです。そうした流れのいったいどこにベニテングタケが入る余地があるのでしょうか?
煙突のそばに大切に下げられた靴下
サンタがシャーマンだったという主張の最後は、私たちがもともと靴下にプレゼントを入れるようになったのは、それがシベリアのシャーマンがベニテングタケを乾燥させる方法だったからだ、というものです。つまり、私たちがプレゼントの詰まった靴下を吊り下げるように、吊るして乾かしたというのです。これが嘘であることは簡単にわかります。
現代のサンタに関するこれ以外の誤った思い込みは、長い時間をかけて作られたものですが、靴下にプレゼントを入れるという風習の出どころは、聖ニコラウスにまつわるある中世の物語であることがはっきりしています。それによると、聖ニコラウスは、妻と死別し、三人の娘が嫁ぐ際に持参金を持たせることができない男がいるということを聞きつけました。伝説によれば富裕層に生まれた聖ニコラウスは、男の長女の持参金にと窓から金貨を投げ入れました。また別の日には、次女の持参金にとさらに金貨を窓から投げ入れました。さらに最後の娘の持参金のために金貨を投げ入れようとすると、金貨の何枚かが煙突の横に干してあった靴下に入ってしまったのだそうです。これがこの風習の出どころであって、キノコではないのです。
歴史の皮肉
興味深い——そして皮肉な——ことに、サンタクロースがシベリアのシャーマンだったという話は、冬を象徴する神秘的な人物、ジェド・マロース(祖父フロスト)とお供のスネグーラチカ(雪の乙女)が登場する有名なロシア伝承には一切登場しません。ちなみに、ジェド・マロースとスネグーラチカは橇で移動しますが、橇を引くのは空飛ぶトナカイではなく地上を走る馬です。シベリアのトナカイとサンタのトナカイを結びつけたのはアメリカならではの思いつきで、現代のロシア人の多くがそんなことは聞いたこともない、というのは、アメリカ人がジェド・マロースとスネグーラチカなんて聞いたこともないのと同様です。
皮肉なことは他にもあります。シベリアのシャーマンが欧米のポップカルチャーに登場するようになったのは 18世紀後半でした。現代的なサンタクロースのイメージが最初に作られた19世紀には、多くの書籍、絵画、菌類学の手引書が製作され、そのすべてにベニテングタケが登場します3 。この二人の架空人物(シベリアのシャーマンとサンタクロース)はどちらも、ほぼ同時期に欧米のポップカルチャーに伝わったわけですが、この二人には接点がまったくなかったのです。
19世紀を通じ、(サンタクロースに変身する途中だった)聖ニコラウスについて書いた人の中には、彼とシャーマニズムやベニテングタケを関連付けた人は一人もいませんでした。同様に、ベニテングタケやさまざまなシベリア文化について書いた人は誰も、サンタクロースや聖ニコラウスに言及しませんでした。文献をいくら探してもないのです——今日のように「薬物」が社会的なタブーではなかった時代ですら4。
誤解の始まり
では、「サンタはシャーマンである」という物語はいったいいつ、どのようにして始まったのでしょうか? その起源は歴史の深淵ではなく、20世紀に始まったことであると正確に言うことができます。この仮説を最初に提唱したのはロバート・グレーブスという人で、『Difficult Questions, Easy Answers(難しい質問と簡単な解答)』(1972年)という(ぴったりの題名の)著書の中でした。けれども彼はこの主張について何のエビデンスも提供していません。
この仮説はほとんど見向きもされないまま、1970年代の後半にグレーブスから民族植物学者ジョナサン・オットに受け継がれました。ただし、サンタクロースとシャーマンが関係している可能性が主題の本格的な書籍は、トニー・ヴァン・レンテルゲンの『When Santa was a Shaman(サンタがシャーマンだったとき)』(1995年)です。興味深いことにヴァン・レンテルゲンは、彼の主張を裏付ける、信頼の置ける情報源を一切引用していません。その参考文献一覧を見るとどうやら彼は、グレーブスやオットの主張さえ知らなかった、あるいは意味を見いださなかったようです。そして、サンタクロースとオニテングタケのつながりについては何も述べていません。
実際、レンテルゲンはオニテングタケについては、どんな文脈においても一言も言及していないのです。それどころか、「シャーマン的な」手法に触れているところでも、「音、音楽、舞踏、擬態、仮面、化粧、衣装、芸術、ならびに炎、セックス、暴力…」等々を挙げていますが5 キノコについては触れておらず、意識的に触れずにいるようにさえ見えます。レンテルゲンにとってトナカイとの「シャーマン的な」関係性は、古の「魔法のごとく群れを大きくする象徴的な受胎の儀式」から来ています。
幻覚を引き起こすキノコはこの儀式には使われませんでした。6
サンタとベニテングタケを結びつける本格的な書籍が出版されたのは 2007年のことで、パトリック・ハーディングの『The Christmas Book』(2007年)という本でした。残念ながら、ヴァン・レンテルゲンと同様、ハーディングもその主張を裏付けるエビデンスは一切提供しておらず、いったい彼はどこからこの着想を得たのだろうという疑問が残ります。その答えは単純です——すべてでっちあげなのです。
要するに
私がここで言いたいのは、シベリアでベニテングタケを食べていたシャーマンとサンタクロースのつながりが嘘であるということよりも、現代社会において情報がいかに軽率に拡散されるか、ということです。この話題に関連するほとんどすべての記事、YouTube動画、ブログ投稿が、サイケデリックなクリスマスの寓話を、まるでお互いを盗用しあっているわけではないかのように得意げに書き立てます。オリジナリティの欠如もさることながら、こうした「人の真似」を憚らない現象こそが、著名人や「インフルエンサー」や似非ジャーナリスト、そしてクリック数を稼ぎたくてたまらない人たちが、世界の仕組みや歴史的事実に関する裏付けのない主張を、騙されやすい聴衆に向かって言いふらす、「事実なんかどうでもいい」世界に陥りつつあることを明らかに示しています。その過程で私たちは、何事についても、自分の頭で批判的に考える力を失っていくのです。
私たちは、正直な疑問を抱く代わりに、自分自身が作り出したエコーチェンバーの中で情報をあさるだけになってしまいました。私たちがサンタクロースとマジックマッシュルームを結びつける寓話を信じるのは、陰謀論に人気があるのと同じ理由です。それを信じることで私たちは、自分がこの世界に関する何か特別な知識を持っているような気分になることができ、自分がすでに半ば信じていることがそれによって強化されるのです。
トーマス・ハツィスは、『The Witches’ Ointment and LSD The Wonder Child: The Golden Age of Psychedelic Research in the 1950s』を含む数冊の著作がある。
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参照文献
- Bruce David Forbes, Christmas: A Candid History (CA: University of California Press), 52.
- Benjamin A. Smith (trans.) Bernd Brunner, Inventing the Christmas Tree (CT: Yale University Press, 2012), 40.
- See Andy Letcher Shroom: A Cultural History of the Magic Mushroom (2007), 122-29.
- Ibid. Despite the plethora of first-hand account drug literature in the 19th century (for example, Fitz Hugh Ludlow, The Hasheesh Eater,1857); Thomas De Quincy, Confessions of an English Opium Eater, 1821), all the stories about the amanita muscaria were fictitious accounts, notwithstanding those few coming from actual Siberian shamans.
- Tony van Renterghem, When Santa was a Shaman (MN: Llewellyn Publications, 1995), 57.
- Ibid., 63.